米国の老舗出版社エンサイクロペディア・ブリタニカ(Encyclopaedia Britannica)と辞書ブランドのメリアム=ウェブスター(Merriam-Webster)が、OpenAIを著作権侵害および商標権侵害で提訴した。訴状は2026年3月中旬、ニューヨーク州南部地区連邦地方裁判所に提出された。250年以上にわたり築き上げた信頼ブランドの保護を掲げ、AI開発の法的境界線を問う注目の訴訟となっている。
訴訟の概要──約10万件の記事が無断スクレイピング
訴状によれば、OpenAIはブリタニカの約10万件に及ぶ百科事典記事を無許可でスクレイピングし、大規模言語モデル(LLM)の学習データとして使用した。原告側は、この行為が著作権法に違反するだけでなく、ChatGPTの出力段階においても著作権侵害が生じていると主張している。
具体的な事例として、訴状では以下のケースが挙げられた。
- メリアム=ウェブスターの定義の複製:ChatGPTが「plagiarize(盗用)」という単語の定義を、メリアム=ウェブスターの辞書とほぼ同一の文言で出力した事例
- ブリタニカ記事の再現:アレクサンダー・ハミルトンとアーロン・バーの決闘に関する記事において、ブリタニカ独自のキュレーション構成がそのまま再現された事例
これらの事例は、単なる事実の引用ではなく、編集者が長年にわたり蓄積してきた独自の表現・構成が無断で複製されていることを示すものだと原告は主張している。
ハルシネーションによる誤引用──商標権侵害の新論点
本訴訟で特に注目されるのは、AIの「ハルシネーション(幻覚)」を商標権侵害として争点に据えた点である。
原告側は、ChatGPTがブリタニカを出典として引用しながら、実際にはブリタニカに存在しない情報を提示するケースがあると指摘した。これは連邦商標法(ランハム法)に違反する虚偽の出所表示にあたるという主張だ。
「ChatGPTは、ブリタニカの名前を利用して誤った情報に信頼性を付与している。これは250年以上にわたって築き上げた当社のブランドと信頼を直接毀損する行為だ」
ハルシネーションがAI業界全体の課題として認識されるなか、それを法的責任として問う試みは業界に大きな影響を与える可能性がある。
「出力そのものが侵害」──新たな法的戦略
本訴訟の法的戦略において画期的なのは、AIの出力そのものを著作権侵害として標的にしている点だ。従来のAI著作権訴訟では、学習データとしての利用(トレーニング段階)が主な争点だったが、ブリタニカ側はそれに加え、ChatGPTが生成するテキスト自体が著作物の複製にあたると主張している。
この「二段階の侵害理論」は、AI著作権訴訟の法的枠組みを大きく拡張する可能性を秘めている。裁判所がこの主張を認めた場合、AIサービス提供者は学習データの適法性だけでなく、出力内容の逐一監視という新たな義務を負うことになりかねない。
ライセンス交渉の経緯
訴状によると、ブリタニカは2024年11月にOpenAIに対してライセンス契約を打診したが、OpenAI側はこれを拒否した。OpenAIは「公開されているデータに基づいて学習しており、フェアユース(公正使用)の範囲内である」との立場を示したとされる。
「当社のモデルは公開されているデータに基づいて訓練されており、フェアユースに基づいている」──OpenAI側の見解
原告側は法定損害賠償と恒久的差止命令を求めている。賠償額の具体的な金額は明らかにされていないが、約10万件の記事それぞれについて法定損害賠償が認められれば、総額は極めて大きな金額に達する可能性がある。
AI著作権訴訟の現在地
ブリタニカ対OpenAI訴訟は、AI業界で相次ぐ著作権訴訟の一つに位置づけられる。主要な訴訟を以下に整理する。
訴訟 | 提訴時期 | 主な争点 | 現状 |
|---|---|---|---|
ニューヨーク・タイムズ対OpenAI | 2023年12月 | 記事の無断学習・出力での再現 | 係争中 |
ブリタニカ対Perplexity AI | 2024年9月 | 検索AIによる記事の無断利用 | 係争中 |
出版社連合対Anthropic | 2024年 | 学習データの著作権侵害 | 15億ドルで和解 |
ブリタニカ対OpenAI | 2026年3月 | 学習・出力段階の侵害+ハルシネーション誤引用 | 提訴 |
特筆すべきは、Anthropicが15億ドル(約2,200億円)という巨額で和解に至った点だ。この前例は、AI企業にとって訴訟リスクが極めて高いことを示している。
今後の展望
本訴訟の行方は、AI業界全体に深い影響を及ぼす。特に以下の3点が注目される。
1. フェアユースの適用範囲
OpenAIが主張するフェアユースの抗弁が、百科事典や辞書のような体系的な著作物に対しても成立するかどうかが争われる。事実の集積ではなく、独自の表現やキュレーションに著作権が認められるかが焦点となる。
2. ハルシネーションの法的責任
AIが虚偽の情報を特定のブランド名と結びつけて出力する行為が、商標法上の責任を生じさせるかという前例のない論点について、裁判所の判断が注目される。
3. AI企業のビジネスモデルへの影響
出力段階での著作権侵害が認められた場合、AIサービスの提供方法そのものに根本的な変更が求められる可能性がある。リアルタイムでの出力監視や、出典の明示義務といった新たなコンプライアンス要件が生まれることも考えられる。
ブリタニカの訴訟は、AI技術の急速な発展と、知的財産権の保護との間に存在する緊張関係を改めて浮き彫りにした。裁判所の判断は、今後のAI開発のあり方を方向づける重要な指標となるだろう。
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